と頼んだところ、とても臨場感のある、美しい文章がかえってきました!
O川さんお忙しいなか、本当にありがとうございます。ここに掲載します。
あらかじめ断っておくと、小谷くんについての記述が多めです笑
小谷レポートということで、ご容赦をお願いします。
それでは「Continue reading」からご一読を。
Steenbergen 24Hour, in Holland スタッフ記。
小川なおや
当日、会場入りしたときには小雨であった。加えて、また冬に逆戻りしたかのような寒さだった。数週間前から春の陽気になっていたのになぜかこの土曜日から気温が急激に下がった。
思っていた以上にカンファタブルなオランダの公共交通を乗り継ぎ会場には予定通りに到着した。日本のテントまで行くと、当日参加の自分をみんな暖かく迎えてくれた。そしてすぐに古北さん、小谷からエイド計画の説明を受けた。何をもってきたか、どんなタイミングでとる予定か、などざっくりと一通り確認。古北さんのエイドは薬類、エナジードリンク、が多い。調子があまりよくないのかもしれないとなんとなく感じた。対して小谷。驚いたことにチョコバー、チーズバーを始め、コーンスープ、雑炊といった普通の食べ物が多い。いままでゼリー、サプリ中心だった彼がエイドをこうした普通の食事に変更したことは、彼の更なる進化を予感させた。レース前の緊張もいつもより少ないようだった。
レース30min前。キャプテンの本田さんを中心に円陣を組んだ。「絶対結果を出そう」その言葉にみんながうなずく。円陣を組んだのは日本だけ、アジアからの参加も日本だけである。レース開始前から個人戦だけでなく団体戦を強く意識する日本、日本選手団の誰もが、ここにいることを誇らしく思っていたとともにその責任を感じていたのだろう。
12:00、小雨のなかレーススタート。風もあり、体感温度は10℃以下。ビニール袋をかぶる選手も多かった。スペインの選手が飛び出す。アメリカが続いた。そして楢木さん、坂根さんも負けじと果敢な飛び出しをみせる。二人とも初めての世界大会だったが、他選手の記録から見て最初から飛びださない限り勝ちは難しいと判断しての苦肉の策だったと思う。他、日本選手も大きく離されることなく、じっくりと周回を重ねていく。本田さんはコースには立ったが、肉離れのため早々に勝負からは離脱、それでも日本チームのキャプテンとして内側から日本選手を励まし続けた。
次第に天気も良くなり気温もあがる。サポートにはちょうど良い気温になってきた。と思っていたのもつかの間、スコールが断続的に降り始め、雨、気温変化に苦しめられていく。
日が暮れ始めると気温は一層冷え込み、風も更に強くなった。まだ序盤なだけに選手達は淡々と走っていたが、雨、風、気温の変化、目まぐるしく変わる環境への対応に肉体的にも精神的にも相当ストレスが溜まっていっていることは分かった。さらにコースの半分は街灯もない暗闇、ろうそくの光があるのみだった。神秘的で美しいコースであるが、ランナーにとってはストレスフルだ。
9時を過ぎたころから雨脚、風ともにいっそう強まり、コース上の選手の数が減っていく。雨、風は容赦なく選手から熱、エネルギーを奪われていく。エイドにいても耐えられないほど寒いのだから、選手の消耗はとてつもなかっただろう。ペースは落ち、トイレの回数は増え、休憩も長くなった。
我慢の時間だ。しかし、これは潜在一隅のチャンスだとも思った。特に小谷のような若い選手にとっては想定外の事態があったほうが勝てるチャンスは高くなると思う。そんなおりエイドでぬるいコーンスープを飲みながら、小谷はこう口にした。「万に一つの望みがある。可能性があった方がレースは楽しい。」と。まだ20代前半の小谷には、これから先もチャンスはあるだろう。しかし、このメンバーで走るのは最後だろうし、これだけ厳しい天候もなかなかないだろう。そういう意味で、このレース、僕は小谷に狙って欲しかったし、彼自身もそう思っていたと思う。
悪天候は日本選手にももちろん厳しい戦いを強いた。太もも痛で古北さんがペースをガクッと落とした。エアーサロンパス、ロキソニン、筋緩和剤を大量に摂取するも回復せず、そのまま沈んでいった。薬と指示されるままに薬を準備する自分に少し罪悪感もあった。そこまでして走らなければならないものなのか、と。
小谷も次第に元気がなくなっていった。それまで食べられていたバー、ドリンクが徐々に飲めなくなってきた。胃薬で摂食不可能という最悪の状況を回避しつつ、決して暖かいとはいえないコーンスープで身体を暖め、雑炊でエナジーを、OS1で水分を補給した。そして身体の調子がいいときにバーやゼリーを食べ、ドリンクで流し込んでいた。カフェイン錠で眠気を振り払った。ここを乗り切ればきっと勝てると信じて。「がんばれ」そんな言葉を発することにさへ、後ろめたさを感じた。なぜそこまでして走らなければならないのか。なにが彼をそこまで走らせるのか。
朝6:00、ついに夜明けだ。コース上の選手の数が増えていく。依然、上位国は快調なペースで走り続けていた。日本選手もチャンスを信じて夜も走り続けていた。この時点で団体男子女子ともに2位、楢木さんはトップ3内におり、我孫子さん、日浦さん、小谷も10位以内。上位入賞を狙える場所にいた。女子は坂根さんが寒さにやられて上位争いから抜けたものの、トップの工藤さんに続いて、白川さん、岡さんが堅実な走りで10位圏内をキープしていた。レースは全体的に少し落ち着きを見せてきた。
しかし、これで終わってしまうわけにはいけない。
このあたりから徐々に差を詰めて行かない限り、勝ちはない。しかしもはや体力は限界に近く、終わりが見え始めるにつれて自分の残り体力と残り時間を計算してしまうような時間帯でもあった。
午前8:00、ラスト4時間。苦しかっただろう。しかし小谷は「前後の差はどのくらいか」と自分から聞いてきた。あと1周つめると6位、あと4周つめると3位だと教える。すると彼は「違う」と。「団体戦の前後はどうなんだ」と聞き正してきた。驚いた。とともに尊敬した。最も若いうえに、結果も狙えそうな順位にいる彼から、そんな言葉を聞くとは全く考えてもいなかった。この大会に望む小谷の心構えを感じた。と同時にいま彼には本当にぎりぎりの体力しか残っていないのだという事も。
実のところ大会中サポートテントに届く速報は1時間遅れ。サポートスタッフの数もギリギリなため他国との差を記録できず、正確な情報はなかった。1時間前の情報をもとにロシアと2位、3位争い中で数100m差だ、と教える。
小谷は「ペースを上げます」と応えた。
ここからペースを上げるためには、とにかく食べさせなければ。彼も自覚していて、嫌がる身体を意思の力で押さえつける。もう胃は限界だろうが、サプリドリンクを飲み込み、バーやゼリーを押し込む。しかしやはり、周回を重ねるにつれて、わずかずつながらペースは落ちていく。しかし、我慢だ。とにかく食べて、飲んで、走った。
ラスト2時間弱、日本選手男子は一致団結してラストスパートをかけた。誰しも一人では、ペースを上げられなかったのだろう。でも日本チームでなら。かっこよかった。胸が高鳴った。もはやアメリカには届かない位置にいた。自分が何に期待していたのか分からない。でも確かに何か、奇跡を祈っていた。
ラスト1時間、小谷はゼリーで最後のエネルギー補給。そして他の選手が木片を受け取るなか、サプリドリンクを要求。自分自身にプレッシャーをかけた。次の周で、木片を受け取るとさらに加速、残り時間は10分強。もう1周できるか、ギリギリのライン。小谷はさらに自分を追い込む。僕は彼を追った。小谷の最後の瞬間を記録するのは自分の役目だと思った。しかし、追いつけなかった。本当に速かった。そして懸命だった。いままでの練習の全てを、そして日本選手としての責任を背負って走っているように見えた。追いついたのは24時間3分、日本テントまであと100mのところだった。彼は地面に座り込んでいた。なんといっていいかわからなかった。小谷の目に、うっすらと涙が見えた気がした。それを見て、自分も泣いた。このレースのためにどれだけの時間をかけてきたか。どれだけの距離を走り、どれだけの仲間ができたか。どれほどの人の代表として選ばれ、どれだけの重圧があったか。どれだけこのレースが苦しく、そしてどれだけ嬉しかったか。ほんの少しではあるが、推し量られたから。
文字にできないことがたくさんある。映像では現せないことも、見ていてもわからないことも。きっとこのレースに出た人にしかわからない。ただその一部分でも共有させてもらえたこと、本当に感謝である。
「いつか日本を世界一に導く」小谷の次のターゲット。その現場に自分もいたい。そしてまたその一部分を共有できたら。そんなことを最近思う。